2017年1月1日 日曜日
一服の茶
一服のお抹茶を点てる。ベランダの階段に座り、それを手にする。風に薫る木立と、下草の露を心に迎える。黒楽茶碗と抹茶の緑、木々の葉の碧が響きあう。ほんの一瞬、七色の光が、まぶしく煌めいた。
お茶を戴き、喫する時、遥か遠くの「時」を思う。長い歴史に裏付けられながらも、幾度洗礼を受けただろう「茶のいまだ知られざる未知」というものを、考える。茶を伝え、支え続けておられる方々をして、一服の「茶」が成り立っている。茶とは茶事のことである。その一服の茶に凝縮された伝統文化の存在は確かなものと思う。私は茶碗を手にし、「与えられている」その凄さというものに惹かれていたし、時に動かされもする。心からなにやら有難さが、ふつふつと湧きあがる。いつも、そうなのだ。
大好きだった先生に「茶」の稽古をして戴いた。僧侶だったその茶匠は、十年前、九十七歳にて亡くなられた。大好きとは書いたけれど、私は、先生の何がすきだったのか、いまだにわからない。ただ折りふしに、人生の「問いかけ」というような風のものを、先生は、話して下さった。それは、いつも淡々と、しかし、しみじみと、語られた。今、「与える」という言葉で思い出した。
「与うる事を覚ゆるなかれ 受くる事を忘るなかれ」
先生が長野県のお寺を旅し、出合ったという文である。その訳は、「人にしてあげた事は忘れなさい
人から受けた事は忘れてはいけない」というものだ。「そのとおりだなあ」と共感し、それは私の心に、しっかりと刻みこまれた。確か、
「大低の人は してあげた事はいつまでも忘れず して貰った事はすぐに忘れてしまうものだ」
と先生がおっしゃったように記憶している。とかく、
「ああしてあげたでしょ、こうしてあげたでしょ」
と、相手かまわず、空しくも数えあげては義憤する。やめたいことだ。自分の気持ちとして為した事をも、傷つける。感謝してほしいなどと、押し付けては
ならないのだ。綺麗に忘れている方が心地よい。
と思えば、して頂いていること、お世話になった事などケロリと忘れて、一人前の顔をしてしまう。何ということだろう。決して忘れてはならない「心」がある。受けた恩は、その人に直接返せなかったら、その事が必要な人に為せば、その心に叶うだろうと、少なくとも今、私はそう思っている。
山川草木は、してあげたり、してもらったりする事などない。つまり自他の意識が無い。どうやら、恙なく自然の運行どおりの存在でいられればこそ、どの命も輝きだすように思われる。人間も同じなのではないだろうか。
2016年12月16日 金曜日
雪にきよめられ 風花が 舞うここのところの寒波の天気予報に
穏やかではなく、さりとて平静を保つように
より用心深く、歩きます。
一月下旬並みの寒さは
あつい温泉に浸かり、
乗り切りましょう
ありがたいことです。
これから降る雪は
さらさら 細やかで
美しい雪化粧を見せてくれます。
利休庵も二次オープンです。
2016年11月11日 金曜日
利休庵のごちそうは林立する木立の響き
澄川の瀬音
のびやかな鳥達のさえずり
陽に輝く朝露
心の塵がおちてゆく清寂
心にふれて語りかけてくるもの
心と体が調和する純粋な精進料理
料理長の四季に従った随時変化するおこんだてを
懐石のながれにて 楽しんでいただけます。
喫茶の習慣は世界中にありますが、「神農本草経」に,神農が100種の草を食べ、ある日72種の毒に冒されたが茶で解毒する事ができたとあります